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人名事典 |
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重要度は高等学校の歴史教育における重要ポイントの目安として乗せてみました。ここでいう教科書は山川出版社の2002年度版の「詳説 世界史」を参考にしています。
重要度:☆☆☆☆☆
教科書に太字で記述されている人物。 重要度:☆☆☆☆ 教科書に記述されている人物。 重要度:☆☆☆
教科書の欄外、資料集に記述されている人物。 重要度:☆☆
資料集などにも滅多に登場しない歴史上の人物。 重要度:☆
歴史には登場しない作品の中だけの架空のキャラクター。
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マキャベリ (Niccolo Machiavelli) (1469〜1527) |
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重要度:☆☆☆☆☆ (ピルグリム・イエーガーより)
1498年、29歳の若さでフィレンツェの第二書記局長になるも、フィレンツェを追放されていたメディチ家が復帰すると失職。 その後、政治における権謀術数の必要性を説く「君主論」を記述。他に、「ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考」「戦術論」などの作品がある。
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マリア・テレジア (Maria
Theresia) (1717年〜1780年) (位1740〜1780) |
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重要度:☆☆☆☆☆ (ベルサイユのバラより)
オーストリア・ハプスブルグ王朝の基盤を確固たるものにした、欧州屈指の女傑。 神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの皇后。 オーストリア大公(位1740年〜1780年)、ハンガリー女王(位1740年〜1780年)、ボヘミア女王(位1743年〜1780年)。 一般に「女帝」と呼ばれるが、実際には神聖ローマ皇帝になったわけではない。 当時としては珍しく、夫であるフランツ1世とは恋愛結婚で結ばれ、夫婦生活は円満であり、マリー・アントワネットなど、男子5人、女子11人の16人の子供をなす。夫の死後15年間、自らの死まで喪服を脱ぐことはなかったという。
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マリー・アントワネット (Marie
Antoinette) (1755〜1793) |
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重要度:☆☆☆☆☆ (ベルサイユのバラより)
マリア・テレジアの子で、フランス王16世の妻。
フランス革命がおきたため、フランスを脱走しオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画したが失敗。
1793年、彼女は革命裁判で死刑判決を受け、ギロチンで処刑された。
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マルケルス (Marcus
Claudius Marcellus) (前268年〜前208年) |
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重要度:☆☆☆ (ヘウレーカより)
「ローマの剣」と呼ばれる、ローマ帝国の名将。 前223年には、執政官(コンスル)に就任し、南下し始めていたガリア人を破る。 ハンニバルと渡り合えるローマ帝国の数少ない将だったが、最後にはハンニバルに破れ戦死することとなる。
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ミケランジェロ・ヴォナロッティ (Michelangelo di
Lodovico Buonarroti Simoni) (1475〜1564) |
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重要度:☆☆☆☆☆ (ピルグリム・イエーガーより)
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロとともにルネサンスの三大巨匠と呼ばれる。 『ダヴィデ』や『ピエタ』の作者として有名な彫刻家。 バチカンのシスティーナ礼拝堂の『最後の審判』、パオリーナ礼拝堂にある『聖ペテロの磔刑』、『パウロの改宗』を描いたことでも知られる。
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ミラボー (Mirabeau) (1749〜1791) |
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重要度:☆☆☆☆☆ (ベルサイユのバラより)
貴族の出身でありながら三部会の第3身分議員に属した。
ラファイエット等と、初期の革命を指導し立憲君主制を主張した。
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メムノン (Memnon) (生年不明〜前333) |
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重要度:☆☆ (ヒストリエより)
アケメネス朝ペルシアの指揮官。兄のメントルと共に傭兵隊長として活躍。兄の死後、兄の妻であったバルシネと結婚。 アレクサンドロス大王の東征軍相手に奮戦するも、前333病死する。
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